2014年3月11日火曜日

Principleと日本人?

Principleが日本ディベート界に根付いたのは最近だとよく言われます。

事実、THW torture terrorists.とかのNegでFundamental Human Rightとかの話があまり立たなかったり、feasibilityがかなり重視されていた時代もあったように思えます。2005年頃、当時UTDS OGの中川さん・斉藤さんはかなりPrinciple Argumentを重視していたものの、日本では当時はあまり流行っていなかったとのことです。

Principleを話す人はマイノリティだった時は確実にあったのでしょう。

そうなると2つの疑問が生まれます。

・Principleが当初日本で流行らなかったのはなぜでしょうか?
・そして、最近はなぜPrincipleが流行るようになったのでしょうか?

前者に関しては、私も良く分からないのですが、巷でよく言われている説として、「Academic Debateの名残を受けている」とされています。ここに関しては私は完全な素人なので分かりませんが……。

また、最近興味深い記事があったので紹介します。
http://www.huffingtonpost.jp/rootport/discuss_b_4917090.html?utm_hp_ref=japan&ir=Japan

一部引用します。
日本では、プラクティカルな議論が偏重されがちだ。新聞もテレビも、インターネットでも、フィロソフィカルな議論をしようとすると「現実的でない」「夢想的だ」という烙印を押される。こうして日本人は、物事の「本質」について議論する機会を失うのだ。
 プラクティカルな議論をするためには、土台となる価値観を固めなければいけない。価値観を固めるには、フィロソフィカルな議論が欠かせない。しかし日本では、国の政策でも、企業の事業計画でも、フィロソフィカルな議論は滅多にされず、いつの間にか"空気"で決まっている場合が多いのではないだろうか。
 とあります。
なんとなく頷けそうではあります。そもそも、カルチャーとしてプラクティカルな議論が日本社会において重視されている可能性はあります。ただ、定量的にも分かりませんし、サンプルとしてもテレビ番組や2ちゃんねる等であると、なんとも言いがたいところはあります。


後者に関しては、シンプルに海外の影響なのでしょうか?海外音源や、日本人の国際大会への参加の促進によってPrincipleの「輸入」が増えたのでしょうか?

もちろん、定量的に全くもって証明もできていませんし、分かりませんが実感としてこういう現象が起きているのかもしれませんね。

ただ、もしこのような状況が起きているとしたら、単純に海外音源の真似事をするのではなく、筆者の言葉を借りれば「物事の本質を考える」ことこそが不可欠なのかもしれません。

その方法は、やはり先人に学ぶことと、普段から思いを寄せることなのでしょうか。「XXとはそもそも何か」という問いから発信して。

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