2014年3月20日木曜日

ディベーターがジャッジに抱く疑問②「なんでtieになるの?」

前回の記事では「何でそこで見たの?」という疑問に関して書きました。
今回の記事では「そこで見たのは分かったけど・・・なんでtieになるの?」という話をしたいと思います。

「Principleはtieになってー」
「子供のcharacterizationは優劣がつけられなくてー」

こういうような表現ってよく聞くと思います。

でもディベーターからしてみると「え、ちょっと待って」ってなることもあるんですよね。
また、これは個人的な経験則でもあるんですが、ジャッジをしてディスカッションをしていると「tieになった」という時「ん?」と首をかしげてしまうことが多いのです。

なぜかというと、ディベートってそう簡単にtieにはならないからです。笑

なので、個人的には「本当にtieなのか?」という問いを自分に立ててみて欲しいと思っています。
つまり、本当にそのイシューってtieなのでしょうか。

「govもoppも説明していたから」tieになるとは限りません。
govが「どう説明したか」とoppが「どう説明したか」が同列の時tieになるからです。

そう考えると、「Argumentの関連性・深さ」や「Refutationの鋭さ」をちゃんと評価しているのか?と見直してみると良いのかもしれません。

「Argumentの関連性・深さ」について説明しましょう。
Argumentは主に関連性と深さで説得力が増すと思います。(もちろん他の評価軸もありますが。)

関連性というのは、Spirit of the Motionを反映しているのか、それともモーションのキーワードやステークホルダー等が守りたいパラダイムにおいて生じるexclusiveな話をしているのか、といったところから評価することができます。

深さというのは、どういったreasoningがされたのか、どういったイラスト/picturizeがされたのか、どういった例(case study, analogy)を出したのかというようなところから生じるでしょう。また、principle/practicalの両観点があったり、相手の話を考慮しているかどうか等も深さの対象になるはずです。

次に「Refutationの鋭さ」について説明しましょう。

鋭さというのは、感覚的なものかもしれませんがどれくらいそのArgumentの信憑性や信頼度を下げたかに左右されると思います。巷で流行っている"not unique"は相手の話を削ることには作用しているものの、多少なりと残ってしまうと感じやすいですし、"not always true"のようにメカニズムを切りに行く話では「それって毎回そうなの?」という疑問をジャッジに残してしまうでしょう。


なお、誤解がないように強調しておきますがtieになることや優劣の判断をつけられない時もあります。大事なのはtieに本当になっているのか?なぜtieになったのか?ということをディベーターが知りたがっているということです。


結論:
もちろんtieになることやそこだけでは優劣の判断をつけられないことも多々あると思います。ただ、簡単にtieにしていないかどうか見直すことは十二分に必要な気がします。その際、Clashの中でArgumentの関連性や深さ、Refutationの鋭さ等を留意しておくといいかもしれません。

2014年3月19日水曜日

ディベーターがジャッジに抱く疑問①「何でそこで見たの?」

いいジャッジというのは何なのでしょうか。
色々な定義があると思いますが、そのうちの一つに「説得性・納得性をディベーターに提供する」というのがあると思います。そう考えるとこれは逆に言うとディベーターがジャッジに対して疑問を抱かないことが必要になってくると思います。

したがって今回何回かにわたってディベーターがジャッジに対して抱く疑問に関して説明していこうかなと思います。

その一つとして「何でそこで見たの?」というのがあると思います。

お恥ずかしながら、僕は昔よくジャッジにかみついているタイプのディベーターだったと思っていて、最近ではましにはなったのかとは思うのですがそれでもまだ結構質問する方だと思っています。(噛み付いた皆さんすみません。。。)

その中で自分がどういうときに噛み付いているのかなぁと考えると、その一つに「なぜそこでみたのかなあ」という疑問がある時なように思えます。

おそらくなのですが、それは「ジャッジが最終的な判断を下した場所(特定のクラッシュ、分析等)」になぜ至ったのかという部分が明言化されていないからだと思います。

最終的にpracticalな部分でみたりとか、contextでみたりとか、engageの度合いでみたりとか、色々な判断があるんだと思います。それはディベートやジャッジにおいて様々でしょうし、色々な場合があると思います。

実際問題として、ジャッジはそういうことを無意識のうちに考えている場合もありますし、ディスカッションでかなり実は議論されたもののそれが単純にアウトプットに至っていない場合もあります。ただ、困るのはディベーターとしていきなりその思考プロセスを説明されずに「ここで見ました」のように言われると「えっ」と思うんです。

もう少し具体的な例をあげたいと思います。

例えば、3つくらいクラッシュがあって、(A, B,. C)Cが実はABにも繋がる前提であり、ディベートでもかなり時間がとられて説明されていた内容だったとします。そして、A,B単独では優劣をつけることが非常に困難だったとしましょう。

その場合、ジャッジがいきなり「Cの観点で・・・」と説明し始めると、ディベーターは「AとBはどこいったんだ!」「何でそこで見たの?」と思ってしまうんだなあと思います。特に、ディベーターが見ているディベートと、ジャッジが見ているディベートはぜんぜん印象がかわってくるので。

従ってその場合、A,Bではなぜ優劣がつかなかったのか、なぜCが重要なクラッシュになったのかというプロセスを説明することが重要なのかなと思います。


あとよくあるのが、「プリンシプルはプラクティカル依存だと思ってプラクティカルで見ました」という説明です。プリンシプルの種類にもよりますし多くのディベーターの説明のしかたによってぜんぜんかわってくるかもしれませんが、プリンシプル自体の説明の深さの説明で差がつくことや、またプラクティカルがよかったけどプリンシプルがないgovと、プリンシプルはよかったけどプラクティカルは分からなかったoppとかだと「プラクティカルでみました」というような判断は必ずしも公平に聞こえない可能性も出てきます。

別にプラクティカルでみようがプリンシプルでみようがいいのですが、なぜ「そこで見たのか」というプロセスがここでも重要な気がします。

結論:
若干抽象的な議論で申し訳ないのですが、言いたいこととして
「何でそこで見たの?」という疑問を解消するためには、
「なぜそこで見たのかという思考プロセスを明示する」ことを意識すると良いと思います。

2014年3月11日火曜日

Principleと日本人?

Principleが日本ディベート界に根付いたのは最近だとよく言われます。

事実、THW torture terrorists.とかのNegでFundamental Human Rightとかの話があまり立たなかったり、feasibilityがかなり重視されていた時代もあったように思えます。2005年頃、当時UTDS OGの中川さん・斉藤さんはかなりPrinciple Argumentを重視していたものの、日本では当時はあまり流行っていなかったとのことです。

Principleを話す人はマイノリティだった時は確実にあったのでしょう。

そうなると2つの疑問が生まれます。

・Principleが当初日本で流行らなかったのはなぜでしょうか?
・そして、最近はなぜPrincipleが流行るようになったのでしょうか?

前者に関しては、私も良く分からないのですが、巷でよく言われている説として、「Academic Debateの名残を受けている」とされています。ここに関しては私は完全な素人なので分かりませんが……。

また、最近興味深い記事があったので紹介します。
http://www.huffingtonpost.jp/rootport/discuss_b_4917090.html?utm_hp_ref=japan&ir=Japan

一部引用します。
日本では、プラクティカルな議論が偏重されがちだ。新聞もテレビも、インターネットでも、フィロソフィカルな議論をしようとすると「現実的でない」「夢想的だ」という烙印を押される。こうして日本人は、物事の「本質」について議論する機会を失うのだ。
 プラクティカルな議論をするためには、土台となる価値観を固めなければいけない。価値観を固めるには、フィロソフィカルな議論が欠かせない。しかし日本では、国の政策でも、企業の事業計画でも、フィロソフィカルな議論は滅多にされず、いつの間にか"空気"で決まっている場合が多いのではないだろうか。
 とあります。
なんとなく頷けそうではあります。そもそも、カルチャーとしてプラクティカルな議論が日本社会において重視されている可能性はあります。ただ、定量的にも分かりませんし、サンプルとしてもテレビ番組や2ちゃんねる等であると、なんとも言いがたいところはあります。


後者に関しては、シンプルに海外の影響なのでしょうか?海外音源や、日本人の国際大会への参加の促進によってPrincipleの「輸入」が増えたのでしょうか?

もちろん、定量的に全くもって証明もできていませんし、分かりませんが実感としてこういう現象が起きているのかもしれませんね。

ただ、もしこのような状況が起きているとしたら、単純に海外音源の真似事をするのではなく、筆者の言葉を借りれば「物事の本質を考える」ことこそが不可欠なのかもしれません。

その方法は、やはり先人に学ぶことと、普段から思いを寄せることなのでしょうか。「XXとはそもそも何か」という問いから発信して。